M&Aにおける人事労務上の対応について再考する

人事労務の専門家として、M&Aにおけるデューデリジェンス(以下DD)や統合後の制度設計支援に携わる中で、さまざまな事例に直面します。たとえば、ある合併予定のケースでは、両社の基本給に大きな差があり、統一した場合に人件費が急増して赤字体質となる可能性が浮上。結果的に合併は見送り、業務提携へと方針転換されました。双方の経営者は労働条件の違いを軽視していましたが、制度の違いを可視化することで合併後の現実が明確になり、判断を見直すに至ったのです。
このような経験を踏まえ、M&Aにおける人事労務の留意点を改めて考察します。
1.一つの会社に十数種の就業規則と給与規定が併存していたら
正社員の就業規則や給与規程が10種類以上あり、労働条件はもちろん、基本給、手当の種類、昇給・昇格のルール、人事評価制度などがすべて異なる状態のため、これを集約したいというご相談を受けたことがあります。皆さんの会社がこのような状況だった場合、どのような混乱が生じるでしょうか。
まず、勤怠管理や休暇制度の運用が複雑になり、基本給や手当のルールの違いにより給与計算も複数のパターンに対応しなければなりません。また、人事評価や昇給・昇格の時期や方法も制度ごとに異なり、非常に煩雑です。そのため、この会社では人事労務部門に多くの人員を配置して対応していました。
この会社は、短期間で十数回のM&Aを行い、規模を急拡大した結果、制度統一が後回しとなっていました。事業特性上、人事異動があまり重要ではなかったため、就業規則などの一本化よりM&Aの実行を優先したのです。
しかし、市場環境の変化を受けて店舗再編が必要となり、人材流動性を高めるため労働条件の統一化に取り組むことになりました。現状分析の結果、制度統一のためには数千人の社員に対し不利益変更への対応が必要であり、交渉には膨大な時間とコストがかかるうえ、離職リスクも高まることが判明し、計画は頓挫してしまいました。
2.目指すべきは人事労務に関するルールの統一
M&A後に一つの会社に統合する場合はもちろん、グループ会社として存続させる場合でも、グループガバナンスの実現、人材の柔軟な配置や業務効率化の観点から、就業規則等や人事制度の統一あるいはフォーマット化は重要です。
また、統一を進める際、可能な限り自社の制度を採用するためには、平時から自社の制度を整備し、説得力ある内容にしておくことが求められます。M&Aを戦略的に進める企業であれば、事前に統一項目と調整可能項目を定義し、グループ会社であっても統一的な制度を設計できるように準備しておくべきです。
3.M&A各段階での対応
① デューデリジェンスで行うべきこと
通常、M&Aに当たり財務や法務、労務上のリスクを特定するためにデューデリジェンス(DD)を行います。この際、労働債権の有無や法令の遵守状況といった観点の労務DDに限るのではなく、就業規則や給与規定はもちろん、人事評価といった人事労務に関するルールに関するフィットギャップ分析をおこないます。これにより、給与水準(基本給、月給、賞与、年収など)の差や制度運用の実績確認も含め、制度統一に向けた課題を可視化します。
給与水準が高い企業に合わせれば人件費は増加、低い企業に合わせれば人材の流出リスクが生じます。これは福利厚生、休暇、労働時間などにも当てはまり、合併後の制度変更には慎重な検討が必要です。制度統一が相乗効果を毀損する可能性があるならば、合併以外の手法も検討すべきです。
② 合併契約前に行うべきこと
労働契約承継法では、合併により労働契約は包括的に承継されるため、原則として労働条件を一方的に変更することはできません。また、合併契約書に「現行の労働条件は原則維持する」と安易に記載すると、制度変更の妨げになりかねません。
したがって、フィットギャップ分析の内容をもとに、どの項目をどのように見直すか、不利益変更が予想される項目とその程度、どの制度を採用するかなどを明確にし、両社で協議のうえ移行計画を策定し、それをもとに合併契約書必要な事項を記載する必要があります。
③ M&A後に行うべきこと
合併契約に基づいて労働条件の移行を進めますが、不利益変更の有無にかかわらず、社員への丁寧な説明が必要です。社員全員が「同じ会社の一員」として共通ルールを意識できるようにしなければなりません。
説明会、相談窓口、個別面談などを通じて制度への理解を促すとともに、「調整給」や「経過措置」の活用によって、給与減額による離職リスクを緩和することも有効です。必要に応じて個別同意の取得も必要です。
4.売却側としての準備も重要
買収側の対応に目が向きがちですが、売却側においても事前の制度整備は重要です。あるクライアントは、就業規則や人事制度、労働時間管理などを整備したうえで企業売却を行い、売却後、創業経営者から「制度整備が企業価値の向上と社員への責任につながった」との言葉を受けました。
このように、M&A前に人事制度を整えることは、企業価値の向上と社員の将来への配慮の両面で極めて重要な取り組みであるといえるでしょう。
多田国際コンサルティング株式会社では、人事制度設計、定年延長といった制度設計はもちろん、今回ご紹介しましたM&Aといった経営戦略における人事労務面でのご相談にも対応しております。お気軽にご相談ください。
※本稿は、多田国際コンサルティング株式会社の同名コラムの要約版です。本編は、以下のサイトでご覧いただけます。
プロフィール

多田国際コンサルティング株式会社 フェロー 佐伯克志
私たち多田国際コンサルティンググループは、多田国際コンサルティング株式会社と多田国際社会保険労務士法人で構成しております。
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