マネプラ・オピニオン 「ウィズ・コロナ」時代の彼方を見据えて
あれは9.11同時多発テロが起きる直前の出来事だった。想定できない事態をこそ想定し未知の災厄に備えよ──国防副長官のウォルフォビッツは、米陸軍士官学校の卒業式で、忍び寄る危機に想像力をかきたて立ち向かえと呼びかけた。
米国の中枢を襲った自爆テロの極秘情報(インテリジェンス)を事前に報告を受けて知っていたのではないかと事件後に密かに囁(ささや)かれた。
だが、未曽有の惨劇をぴたりと予言することなどできるはずはない。太平洋戦争の直前、ルーズベルト政権は日本が英米に攻撃を仕かけるのは秒読み段階に入ったと判断していた。だが、日本の空母機動部隊が真珠湾を標的にしていることは察知できなかった。
近未来に生起する凶事を精緻に言い当てるのは不可能に近いのである。それゆえ、各国の情報機関は、将来起きそうな事態をいくつも想定し、その兆しが現れると事前のシナリオを参考にクライシスに対処するようになった。「シナリオ分析」と呼ばれる手法だ。
新型コロナウイルスは、2019年の暮れに中国・武漢で発生し、夥(おびただ)しい人命を奪い、社会・経済システムに痛打を浴びせた。20年ほど前、従来型のコロナウイルスは突然SARSウイルスに変異してヒトに襲いかかった。
各国の研究者たちは次々に現れる新興感染症に備えてワクチン開発に精力的に取り組んだ。だが日本はこの分野で優れた研究実績をあげながら、この国のリーダーには危機意識が薄く、ワクチンの研究・開発でも欧米に後れをとってしまった。
新型コロナウイルスに見舞われた後で、日本政府はようやくカネとヒトを集中的に振り当てるようになった。だが、次なる新興感染症がコロナウイルスから派生する保証はどこにもない。
動物からヒトに感染する人獣共通感染症は、自然界に溢れている。いまこそ想定できない未知のウイルスの出現に備えて、幾多の「最悪のシナリオ」を想定し、ヒトとカネを幅広く振り分けなければいけない。
だが、「ウィズ・コロナ」時代が到来したという声に惑わされ、ニッポンは危うい「選択と集中」に突き進もうとしている。
◎「SMBCマネジメント+」2021年9月号掲載記事
プロフィール
外交ジャーナリスト 作家 手嶋龍一
NHK政治部記者を経て、1987年からワシントン特派員としてホワイトハウス・国防総省を担当し、東西冷戦の終焉に立ち会う。湾岸戦争では最前線で従軍取材。ドイツ支局長を経て、ワシントン支局長を8年間にわたって務める。この間、9.11同時多発テロ事件に遭遇し、11日間の昼夜連続の中継放送を担った。2005年にNHKから独立後は、慶應義塾大学教授としてインテリジェンス戦略論を担当。著書に『ウルトラ・ダラー』、『スギハラ・ダラー』、『鳴かずのカッコウ』など多数。