反怖謙一の「ABC」通信 コミュニケーションは、単なる意思疎通にあらず

三井住友銀行 人事部研修所 顧問、反怖謙一氏の連載コラムです。「ABC」は、「あたりまえのことを」「ぼんやりせずに」「ちゃんとやる」の略で、日々の気づきや学びを基に、反怖氏が物事の根本や本質について書き綴った文章を毎月お届けします。



コミュニケーションは、単なる意思疎通にあらず


経済雑誌を眺めていると「社員のやる気を引き出すには、徹底対話によるコミュニケーションがポイント」という言葉が目に留まりました。


確かにそうなのでしょうが、「コミュニケーション」がカタカナ表記のまま使われていることが、なぜか気にかかりました。


日本語の「おかげさま」や「もったいない」が外国語に翻訳できないように、コミュニケーションも日本語には翻訳しづらいのではないか、なぜなのだろうか、と単純に思った次第です。


興味本位であれこれ調べてみたところ、浅学非才を思い知らされるような思わぬ発見に遭遇し、“当たり前だと思っていたら何も考えなくなってしまう。首をかしげてこそ新たな視点が広がる”、と強烈に実感した次第です。


まずは試しにコミュニケーションの意味をウェブ検索してみると、あるウェブサイトに


「思ったことや、感じたことを、言葉や文字などの『言語』、表情や身振りなどの『非言語』を使って、相手に投げたり、相手から受け取ったりすることによって交換し、お互いを分かりあうこと」


とありました※。


ならばコミュニケーションには、「意思疎通」という訳語を使用すればよいのにと思うのですが、どうも西洋社会でいうところのコミュニケーションという概念自体が日本にはないため、カタカナ表記のままが正しいということのようです。


つまり、西洋人にとってのコミュニケーションの本質は、単なる意思の疎通ではなく価値観を共有することであり、価値観を共有できるレベルまでお互いを理解し、心を通い合わせることができて初めて、コミュニケーションになるというのです。


それゆえに、西洋人は言葉と言葉を闘い合わせて、互いの考え方を理解し、妥結点を見出したらガッチリ握手する。つまり、共有できる価値観を見つけようと、言葉と論理ですり合わせをするのです。


コミュニケーションが成立している状態というのは、共通の価値観を共有したレベルに達している状態を意味するわけです。


新約聖書の、ヨハネの福音書第1章第1節に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(新改訳)というものがありますが、はじめに言葉のあった人たちとは、当然、言葉を多く交わさなければなりません。黙っていては、何も考えていないか、相手に同意していると解釈されても仕方がないというのが、彼らの道理です。


ところで価値観とは、自らの思索や言動の原理原則、自分が大切に思っていることであり、私たちが外部にあるものを認識する際にレンズの役割を果たします。


そして価値観とは、無意識に自らの言葉や行動に表れるものです。情報の送り手と受け手の価値観が異なると、同じ情報でも異なって解釈されるものであり、この点、自分の価値観と同時に相手側の価値観も知る必要があります。


同じ価値観のもと、仕事や生活でそれが生かされ、周囲の人たちに良い影響を与えられたらそれは素晴らしいことです。


西洋におけるコミュニケーションという概念の本質を踏まえ、これを私たち日本人社会でも有益に活用できたらいいなと思う昨今です。カタカナ表記の言葉の、本質探しという楽しみが増えました。



※出所:特定非営利活動法人しごとのみらい  2015年7月15日付ブログ「コミュニケーションとは?


お役立ちコミュニケーションに関する研修プログラムをお探しの方へ

コミュニケーションギャップの理解、相手の立場に立った考えや行動など、コミュニケーションにおける実践型研修プログラムを紹介しております。


◎イラスト/遠藤宏之

◎「SMBCマネジメント+」2021年8月号掲載記事

プロフィール

三井住友銀行 人事部研修所 顧問(元・陸上自衛隊 陸将 第1師団長) 反怖 謙一

(たんぷ・けんいち)1979年、陸上自衛隊幹部候補生として入校。東部方面総監部防衛部長、陸上自衛隊研究本部総合研究部長、北部方面総監部幕僚長 兼 札幌駐屯地司令、陸将 第1師団長等を歴任。2014年に陸上自衛隊退官後、現職。

受付中のセミナー・資料ダウンロード・アンケート